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第一次UWF

日本にかつて存在したプロレス団体。正式名称「ユニバーサル・レスリング・フェデレーション、ユニバーサル・レスリング連盟」を略して「UWF」と呼ばれる。
第一次UWFは、1984年4月に旗揚げし1985年9月に活動を停止した第一期のUWFを指し、1988年4月に旗揚げし1991年1月に解散した第2次UWFとは中心選手はほぼ同じだが、経営体制やコンセプトが異なる。
1984年~85年当時は「UWF」よりも「ユニバーサル」という呼び名が定着していた。

旗揚げから活動停止までの歴史

設立の経緯

  • 1984年3月、新日本プロレスをクーデター事件で追われた新間寿が設立した。
  • 設立の理由は、新日本の創始者アントニオ猪木に対し、フロントや選手が牙を向けたことに激高したため
  • UWF設立にあたって新間寿にはクーデターで社長を解任されたアントニオ猪木や猪木派レスラーの受け皿とする目的があったとみられ、新間は猪木に移籍金を渡していたと証言しているが、猪木は否定している。
  • 旗揚げからエースとして参加した前田日明はアントニオ猪木がUWFに合流する意志があると聞かされていたことを証言している。
  • 旗揚げ興行のポスターには「私はプロレス界に万里の長城を築く」という新間寿のコメントともに、アントニオ猪木ら新日本プロレスの中心選手や豪華な外国人選手の顔写真が掲載されたが、そのほとんどは実際には移籍しなかった。
  • 新間は猪木がUWFに移籍する前提でフジテレビとテレビ放映の交渉をしていたが、猪木が新日本プロレス社長に復帰したことで移籍話は立ち消えとなり、フジとの交渉も決裂した。

旗揚げ

  • 1984年4月11日、大宮スケートセンターで旗揚げ。
  • アントニオ猪木や有名外国人らの移籍はなく、前田日明の試合中に猪木コールが起こるなどした。
  • 旗揚げシリーズ最終戦の蔵前国技館で、前田日明と新日本プロレスから特別参加した藤原喜明が対戦。試合の序盤は道場のスパーリングのような展開で、後のUWFスタイルの基礎となった。
  • フジテレビとの交渉が決裂し、勝算はないとみた新間寿は旗揚げシリーズが始まる前から、新日本プロレスとの業務提携交渉を開始したが、営業スタッフらは反発し独立路線を選択したため、新間の立場は悪くなった。
  • 7月に参戦した佐山聡は合流の条件として新間の退陣を突きつけた。開幕シリーズから撤退を匂わせていた新間が、ここで正式に退陣する。

UWFスタイルの確立

  • 1984年6月27日に藤原喜明と高田伸彦が移籍、さらに7月23日と24日に後楽園ホールで行われた「UWF無限大記念日」で佐山聡がザ・タイガーとして現役復帰。新日本プロレスを退団しスーパータイガージムでインストラクターをしていた山崎一夫も参戦決定し、新日本プロレス道場のスパーリングのような、関節技を取り合うスタイルへと舵を切る。
  • 後のUWFスタイルの基礎となった「無限大記念日」でのメインイベントのカードがこちら。
    前田日明 & 藤原喜明 ○(16:24 原爆固め)ザ・タイガー(タイガージム所属)& 高田伸彦 ×
  • UWFスタイルとは「相手の技を簡単に受けない」「関節技の重視」「ロープへ飛ばない」「キックの多用」などが挙げられる。また、第二次UWF時代には明文化された「決着はギブアップかKOのみ」というルールも、第一次UWF時代にすでに確立しかかっていた。
  • 藤原喜明や前田日明らがカール・ゴッチ門下生であったことから、ゴッチの娘婿である空中正三も選手兼レフェリーとして参加。ゴッチ自身も居住地のフロリダからスコット・マギーやジョー・マレンコ、ヨーロッパからジョニー・ロンドスやピート・ロバーツなど外国人選手のブッキング及び若手選手の指導を協力し、UWFの目指すスタイルが明確となった。
  • 1984年9月からは関節技の達人で、カール・ゴッチの一番弟子とされる木戸修が新日本プロレスから移籍してきた。
  • UWFフロントがカール・ゴッチを外国人ブッカーとして採用したため、それまで外国人ブッキングを担当していたラッシャー木村と剛竜馬がメンツを潰された格好となり、1984年10月に退団した。

活動停止

  • 後楽園ホールなど都心の興行ではUWFスタイルが受け入れられ、ファンも付いてきたものの、地方興行で苦戦し慢性的な資金不足に陥る。
  • 1985年に「海外タイムス」(豊田商事の関連会社)がメインスポンサーとなり、資金繰り改善の見通しが出てきたが、詐欺事件に絡んで豊田商事会長の永野一男が殺害されたことで資金繰りはさらに悪化。
  • 「1984年のUWF」(柳澤健著)によると、佐山聡は第一次UWFを将来的にリアルファイトの格闘技団体していく構想を持っていて、社長の浦田昇もそれを認めていたとされる。その構想に従ってルールを厳格化・スポーツ化し、興行数を減らそうと働きかけたことで、他のレスラーや営業社員との関係が悪化する。
  • 1985年9月2日、大阪府立臨海スポーツセンターで行われた興行では、前田日明と佐山聡のシングルマッチがセメントマッチ(喧嘩マッチ)となり、対立が決定的になる。
  • 当時、営業社員であった上井文彦は、その前の7月25日の大田区体育館での興行で行われた前田日明とスーパー・タイガー(佐山聡)のシングルマッチも不穏試合だったと証言している。また、当時新人だった中野龍雄(現・中野巽耀)も著書「私説UWF 中野巽耀自伝」で、大田区体育館での興行後に前田と佐山が激しい口論をしていたとしている。
  • 1985年9月11日、後楽園ホール大会を最後に第一次UWFは活動を停止。
  • 佐山聡は10月11日にUWF脱退を表明。

 

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新日本プロレスとの業務提携

  • 1985年12月6日に業務提携を発表。新日本プロレスの両国国技館大会に前田、高田、山崎、藤原、木戸がスーツを着て登場。前田が「この1年半、UWFの戦いがなんであったかを確認するために新日本に来ました」と挨拶した。
  • 1986年から新日本プロレスの大会にUWF所属の選手として前田らが参戦する形となった。
  • 格闘技寄りのUWFスタイルを押し通すUWF所属選手たちと新日本プロレスの選手たちの間でのイデオロギー対立が表面化。ロープに飛ばず、キックを多用するUWF勢に一部の選手や外国人選手が拒否反応を示したとも言われる。
  • 1986年4月29日、津市体育館での前田対アンドレ・ザ・ジャイアント戦がセメントマッチとなる。当初はプロレスの試合をしようとしていた前田に対して、アンドレが全体重を掛けた危険な攻撃を仕掛けたが、その後、前田のローキックでアンドレが戦意喪失した。
  • 前田・アンドレのセメントマッチについて、前田日明は当時マッチメーカーだった坂口征二がけしかけたとする坂口黒幕説を主張している。いっぽう、ミスター高橋は外国人選手の間で前田の攻撃が問題視されていたため、ボス格のアンドレが単独で仕掛けたとして黒幕説を否定している。
  • 1986年10月9日、両国国技館での2大異種格闘技戦で行なわれた前田対ドン・中矢・ニールセン戦での勝利で、前田は猪木に代わり「新・格闘王」という称号を得る。
  • 1987年11月19日の後楽園ホール大会で、前田の蹴りによって長州力が顔面を骨折する「前田顔面蹴撃事件」が発生。長州は右前頭洞底骨折の全治1か月の重傷、前田は無期限出場停止処分となる。その後、前田は1988年2月1日付けで新日本プロレスから契約解除となる。
  • 前田の契約解除が結果的に第二次UWF旗揚げの契機となった。

所属選手

旗揚げ時から所属

  • 前田日明
  • ラッシャー木村
  • 剛竜馬
  • グラン浜田
  • マッハ隼人

中途入団

  • 藤原喜明
  • 高田伸彦
  • ザ・タイガー / スーパー・タイガー(佐山聡)
  • 山崎一夫
  • 木戸修
  • 空中正三(ミスター空中)(レフェリー兼任)

第一次UWFに新人として入門

  • 中野龍雄
  • 安生洋二
  • 宮戸成夫
  • 神田秀宣
  • 岡本剛
  • 広松智
  • 星名浩
  • 森泰樹
  • 高山善廣(練習生)

スタッフ・役員

  • 浦田昇(代表取締役社長)
  • 神真慈(神新二)(第1次はリングアナウンサー、第2次は代表取締役社長)
  • 伊佐早敏男(企画宣伝部長)
  • 上井文彦(営業部)
  • 北沢幹之(レフェリー)
  • ミスター空中(第1次は選手兼レフェリー、第2次はレフェリーに専念)
  • 遠藤光男(レフェリー)
  • 吉田稔(営業部長)
  • 浅子文晴(営業部・後にサンボ浅子としてFMWでレスラーデビュー)